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今でも、一部の人に国産ワインを盲目的に安心できるものと信じ込ませているその事件は、単にワインに「ジ・エチレングリコール」が混入していたというだけの問題に終わらなかった。なぜなら、毒物の混入が公にならなかったとしたら、それらのワインがラベルに記した内容:原材料のブドウの生産された場所:が偽りであったことも知らされなかった。

また、隣町のF酒店は自店発行のミニコミ誌に薄識をかくのごとく  「ジエチレングリコールは一般的に使われている添加物である」ように言い、F店ではそんな添加物を使用したワインをは扱っていない事を自慢していた  を流布なさり 未だに外国産ワインを飲めなくなった方も多いのは迷惑な話だ。

ジエチレングリコールをワインに混入したのはあくまで不法に行なった「味付けの為」の卑怯な手段であった。

また、国内産ワイン内容の表示の欺瞞も提示された。その後の自主表示の複雑さは陳腐そのものであった。いまだに気まぐれ表記である。
地名が記されているのならその地方のぶどうだけでつくられているのがあたりまえだし、国産ワインと思わせるワインであるなら国内産ぶどう100%使用であってほしいのだが。


---上記の毒物混入とは別の話題--とお断りしておく---

「無添加ワイン」と称する、いわゆる国産ワインにいたっては原料ぶどうの、または、原料ワインの出所も曖昧だ。多くは輸入果汁(濃縮果汁還元)も使用しており、この段階での保存料の添加の有無については何も語られない。

ワインを飲みなさんなと言うとるのではありまへん。嗜好品だからあなたが美味しいと思ったワインが「正直モノ」であれと願っているだけです。

Fritz Hallgarten著「ワイン・スキャンダル」より

第六章 オーストリアの不凍液混入事件

******その中でもズバ抜けて悪質なのが、1985年に世界を揺るがしたあの不凍液混入事件である。

中略 ブラックリスト1/3 

事件の発端

この事件の発端は1970年代半ばにまで遡る。ひとりの生化学技師が、化学合成のワインを造ろうとして、さまざまな化学物質を水に溶かしていた。彼は合成ワインに成功し、造ったワインを売った。しかしその経費は結構高くつき、葡萄からワインを造るのを上回った。その中で、コクと甘味をつけるために使用したのが、不凍液混入事件に使用されたジエチレングリコールという物質であった。これは冬、トラックやトラクターや自動車のラジエーターの不凍液としてどこでも使用されている物質である。

この技師は健康上問題があるかどうかを考慮せずに、安い日常消費ワインにコクと甘味を付け、より高い値段で売れることだけを考えて実験していた。この科学者は、実験当時、ある会社のワイン醸造主任、ケラーマイスターの職に就いていた。しかもその会社は、従業員が100名以上という有名企業であった。つまり有名ワイン醸造会社が、合成ワインを造るためにジエチレングリコールの実験を行っていたということである。

このジエチレングリコールの秘密は、多数の醸造所やワイン商に金で売られた。そして安いワインに一リットル当たり数グラムの化学物質を加えるだけで、高級ワインに変身することが可能になったのだ。もちろん、このジエチレングリコールは、ワイン法で認められた添加物ではないので、使用は違法である。しかし、いったんワインに溶けたジエチレングリコールは、ワイン管理機関が行なっているどの分析方法でも解析できないところがミソであった。

 

強欲から足がつく

この恐るべき不正事件は、ジエチレングリコールを使って不正をしていた仲間の一人の男の「あまりの強欲さと愚劣さ」により発覚にいたったのだ、とロンドンのオーストリア商務委員会の副会長は言っている。この男は、ジエチレングリコールを使って極秘裏に儲けていながら、それだけでは飽き足らず、使用した大量のジエチレングリコールに支払った付加価値税の還付を要求したのだそうだ。税務署の担当監査官は、これまで聞いたこともない物質の名前を出されて困って上司に伺いを立てた。これは何かあると感じた上司が監督官庁に通報したのが1984年12月であった。

ついに逮捕

オーストリア警察が主犯格の容疑者を逮捕したのは、1985年7月も末のことであった。そして押収したワインの量は、ほぼ五万リットルにも達した。その中で最も古いものは1976年産で、最も新しいものは1984年産であったが、大半は1982年と1983年に造られたものだった。その種類は、ほとんどがシュペートレーゼ、アウスレーゼ、ベーレンアウスレーゼであった。中にはトロッケンベーレンアウスレーゼやアイスヴァインも混ざっていた。有毒ワインは全部、ハンガリーとの国境近くのノイジードラーゼー湖を取り囲むすばらしいワイン産地ブルゲンラント地方産のものとされていた。この湖は、砂地の平地の中心にある浅い湖だが、周囲が穏やかな丘になっており、湿った気候である。秋に霧が発生し、ぶどうに「ボトリチス・シネリア菌」が付着し、貴腐ワインができる土地として有名である。このノイジードラーゼー地方は、上級ワインを多量に産出し外国に輸出している。

ドイツでの混乱

オーストリアから輸出されるワインは、主にバルクでドイツに送られ、ドイツの業者が瓶詰めし、直接自社の販売ルートに乗せるか、あるいは別の業者に売るという形態をとっていた。ドイツ国内で買った業者が瓶詰めし、海外の小売業者に売ることもある。

事件が起こってから、ドイツ国内にあるすべてのオーストリアワインは、樽で保管されているものも瓶入りのものも出荷停止となり、販売が禁止された一部のラベルにはオーストリアの輸出業者名が書かれているが、中にはドイツの輸入業者名のみが表示されているものもあった。その多くは一流の輸入業者であった。有毒ワインとされたワインは数千にも及んだ。その一つ一つが分析検査を受けた。そしてドイツ政府は、ジエチレングリコールに汚染されていないワインのリストも「ホワイトリスト」と称して発表された。ドイツの輸入業者の中には、最初にうわさが出た時点で、すぐにワインを樽ごとオーストリアの輸出業者に返品するものも出た。それでも、ドイツ国内で足止めされたオーストリアワインは100億gを上回った。ドイツのある輸入業者は、「ホワイトリスト」に名が出ているのに、売れないオーストリアワインを倉庫に100万本以上抱えているとこぼしていた。ドイツのワイン商も小売店も、オーストリアワインというだけで敬遠したからであった。

もっとも、ドイツ国内で見つかった有毒ワインIに関しては、オーストリアの輸出業者らはだまっていなかった。彼らは、ワインは樽で輸出されたのだから、毒物が混入したのならドイツで入れられたはずだと主張した。

ドイツ政府はこの主張を退けるために、オーストリアワインを輸入している業者が保有しているドイツワインにまで検査の範囲を拡大した。その結果、遂に検査を受けたドイツ産ワインのうち五本からもジエチレングリコールが検出された。主にラインヘッセン地方のものだったが、ラインファルツ、ラインガウ、ヴュルテンベルクのものも混じっていた。これらはすべて販売禁止処分になり、瓶詰め業者に返却された。何百ポンドという多額の払い戻し請求が殺到し、資金繰りに窮する業者も多数出た。ある会社は数日で支払不能に陥り、破産に追い込まれた。その会社の関係者によると、損害額は120万ポンド(日本円で約2億7千万円)にも上り、売れないオーストリアワインの在庫を百六十万本抱えていたということだ。この事件で黒とされたドイツの業者は皆、添加物の使用を言下に否定し、ワインを貯蔵しているタンクがオーストリアワインで汚染されていたからだと言い張った。しかしこれでは、吹聴されているドイツの衛生観念の高さを自ら否定することになる。

英国に輸入されたドイツワインについては、1981年のラスター・ベーレンアウスレーゼワインの一リットル当たり最高3グラムに比べるとかなり低いとはいえ、一リットル当たり20から30ミリグラムの汚染が見られた。このようにドイツワインのジエチレングリコールの混入濃度が低かったことには、一つだけ納得のいく説明が考えられる。つまり、ドイツワインは、添加物を直接使用していたのではなく、オーストリアワインを違法に混入していたということだ。ドイツワインの格を上げるためにオーストリアワインを混ぜるとすれば、コクのあるシュペートレーゼやアウスレーゼを全体の10%から15%加えれば十分であろう。したがって、ドイツワインで検出された不凍液がオーストリアワインの混入率の15%であるということになれば、話のつじつまが合う。ある酒倉主任は、混ぜたことを告白してこう語っている。「こくのないドイツワインにオーストリアワインをこっそり混ぜて、国内の大きな大会で入賞したことがあります。それも一度ならずも」。

オーストリアワインの広報委員会は、1985年7月19日付のハンブルクで発刊されている「ディー・ツァイト」誌に次のような前面広告を出した。

オーストリアワイン界の迷惑者を許すな

 

事件の捜査開始

関係当局は、すでに1985年4月23日までに、あらゆる対応策を講じた。混入が見つかったワインは全部押収された。オーストリアワイン管理委員会の公式発表によると、現在オーストリアの52790ヶ所の醸造所及び1582人のワイン商、それに52ヶ所の地域醸造組合は、当局の厳しい品質管理の元でワインの生産に当っているということだ。

中略

オーストリアでは、150人もの人が取調べを受けていた。その中の50人ほどが、すでに裁判を待って拘留中であった。不凍液を使うことを発案した男や大量使用者もその中にいた。彼らは、自分のした事を認めており、あとはオーストリアの裁判所の判決を待つだけだった。

その他の国々で

この事件は他の国にも広がり、フランス、スペイン、イタリア、日本、米国などが汚染ワインの調査を開始した。日本では、政府がオーストリアワインの販売を禁止した。短期間だが、日本ではオーストリアワインまで販売禁止になった。オーストリアとオーストラリアの発音がよく似ているので、混同するからという理由だった。米国では、汚染ワインが数本見つかっただけだが、フランスでは、八万リットルも廃棄処分になるなど大問題になった。

イタリアワインも

イタリアの赤ワインまでもジエチレングリコールに汚染されていたことを知った人は、一様に大変驚いた。特に、1974年と1976年のバローロ・キオーラや1975年のバローロという人気の銘柄に毒物が入っていると知ったからなおさらである。1982年物のバルベーラ種(黒ぶどう)の二銘柄にも同様、毒物が検出された。この他にも、ランブルースコ種の白ワインやランブルースコ種の赤ワインからもジエチレングリコールが検出された。当初関係者は、ジエチレングリコールの添加など考えられないと全面否定していた。そして発酵過程でグリセリンが生成するようにジエチレングリコールも自然に生成したのだと主張した。これは、科学者のそんなことはあり得ないという証言でたちまち打ち消されたので、今度は、カビ防止の為に使用した消毒器にこの物質が付着していたのかもしれないと、関係者は言い逃れをした。しかし、これも嘘だということがわかった。ジエチレングリコールは、タンニンの荒々しさを和らげ、ワインのコクを高める作用があるので使用されたということがわかった。味のよくないワインを高級ワインに化けさせる秘策だったのだ。またジエチレングリコールは、水増しワインのエキス分の濃度を高める為としても使用された。

中略 ブラックリスト2/3 へ

この有毒ワイン事件は、無数の真面目な醸造元やワイン商を苦しめ、中小の会社だけでなく大会社まで倒産する結果をもたらした。多数の失業者が出るなど不幸な出来事が続出した。遂にはこの事件を調査していたオーストリア警察のジョセフ・ミッテルアー本部長が、ピストル自殺をするという事件まで発生した。彼の残したメモには、仕事の重圧に押しつぶされそうになっていたことが記されていた。ミッテルアー本部長の遺品の中から見つかった書類から、イタリアのトリエステで起きた不正事件にはマフィアが関係していたらしいことがわかった。彼の調べによると、4000万から5000万リットル(6600万本相当)のイタリア産にせワインがドイツに輸出され、オーストリアの肩書き付きワインのラベルを貼って売られていたということだ。

悪徳業者は、多大の責任を負わなければならないだろう。

後略 ブラックリスト3/3 へ

詳しくは  三一書房 「ワイン・スキャンダル」 フリッツ・ハルガルテン著 斉藤正美訳をご購入されたし

スクラップから From“ヴィノテーク 1998・9”26ページ

”HEIM”と"GARTEN"の丘

前略

地名に"HEIMハイム”が多く、葡萄園に"GARTENガルテン”とつくのが多いのもこの地の特色だが、ローマ時代の別荘地であることを考えるとなるほどとうなずける。

私はナーエを訪れるときに、ラインガウからフェリーでビンゲンへ渡るようなことはしない。あのワインスキャンダルの本家本元たる ピーロート社 が買収したビンゲンの街を私は見るに忍びないからである。昔、ワインがライン河の港から船積みされて出て行ったときには、ビンゲンも重要なワインの街だったかもしれないが、今は私には無用の街どころか、あのスキャンダル後の2年間の苦しみを思い出すと、やりきれないのである。

後略

 

私はジエチレングリコール入りワイン騒動の数年後 広島の輸入食品フェアにおいて、*****ジャパン(日本国内においてジエチレングリコール混入が判明した輸入ワイン66種の内34種を扱っていた)が、貴腐ワインを売るのにあたかも「一流オークションで扱われるような最高峰の生産者のワイン」の値段と比較して販売する現場に遭遇した事がある。

 

 

 

 

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